熊谷の水よし本店で気絶しかかった私は、ギンギンに効かせたクーラー
で
ようやく復活した。その頃には既に車は行田に突入していた。
明るい内に行田に着いたのならば忍城に行きたい。のぼうの城で有名になった
城だ。もしかしたら歴女に会えるかも知れないと、釣れんジャーは二人とも独身
故に色んなことを考えながら、忍城の向う。そして驚くほど早く到着した。
豊臣秀吉公の時代に石田三成さんが攻めたお城なんですって。
案外小さい城だったので、こんな所で籠城戦はしたくないなと福島
司法書士にお話しをしながら、写真の橋を渡ったら・・・。
鯉・鯉・鯉と草魚、ヘラ。釣れんジャーだから、お堀の魚が気にかかる。鯉が口を
パクパクしているのだが、餌になるものの持ち合わせがなかった
ので、あの時の拷問セット(花園道の駅のニラ焼き)を無理して
食べなきゃ良かったね・・・といっていると何と、向こうから歴女の
二人連れ。こちらの釣れんジャーも二人組。しかも写メを撮っているので、一声か
ければ良さそうなもんだが、歴女も釣れんジャーも何も語らずすれ違った。
なかなか難しいモノである。鯉ばかりみていても仕方がないので、行田の次の
散策地へと向かうことにした。
古代蓮・・・もそのひとつなのでしょうが、今回は時間がなく、
さきたま古墳群に向かった
。
← この写真が、遺跡なのです。
分かりますか。丸墓山遺跡と言いまして日本最大の円墳なの
だそうです。
円墳と言いますと、昔の偉い人のお墓だから・・・と思うのですが、全く関係
なく登れるのです。そして福島司法書士は、向こうの稲荷山古墳の前方後円
墳がはっきり分かるから丸墓山古墳を登ろうと何とも罰あたりな事を言うので
仕方なく私も登る際に、ちょっとゴメンナサイねと合掌してから、登らせていた
だきました。
ちゃんと鍵の穴みたいに、前方後円墳でしょ。
こっちはコーンを立ててあったので、よりくっきりと分かります。
なんか模型みたいなので、もう少し雰囲気を出しているモノを
紹介しましょう。
←この人のお墓です。こちらの方も有名な方だと思いますが、
なんせ『さきたま古墳群』と『群』をつけられているので、いちい
ち、何がどうと言えないんですヨ。(白いダブダブの服に、耳の横に 3 みたいな
髪型の時代の方々。昔すぎてあんまり興味が湧かないんですな。)
当然、こちらの古墳群には歴女もおりません。親子連れがめちゃくちゃな速球
でキャッチボールをしているだけの遊びスポットなのです。
テレビでは、ここは凄い所で、もしかすると大和朝廷に対抗する一大豪族がい
たかも知れぬ所なのだ・・・と言っていましたが、建造物がないから、凄さがあまり
伝わらなかった。世界遺産にしようと垂れ幕がかかっていたが、なかなかこのまま
では難しいだろう。広っぱという感じがするもんね。
上の丸墓山古墳などは、小高い丘・・・みたいな感じです。高さ19mとあったが、
19mでこんなにいい眺望なのです。
本当に周囲が見渡せて、ここに古墳や櫓を建てたら、周りから
攻めてこられてもすぐに分かるなと感心した次第です。
・・・なんとなんと、ここの古墳群の一部を、忍城の水攻めで
石田三成さんが使ったと書いてあったので、またまたビックリ。
福島司法書士曰く、石田三成が丸墓山古墳に陣を張ったと言っておりました
ので、二度びっくりです。
昔々に思いを馳せ、ジリジリと照らす、夏の日差しに辟易しながら、このさきた
ま古墳群を後にしたのでありました。
帰路、『フライ』『ゼリーフライ』『いがまんじゅう』の看板がいたるところにあった
のだが、お盆なので売っている所はなく、悲しい思いで車を走らせておりました。
あと、なまず・小魚・川魚と言う看板もたくさんあったので、ここは熊谷文化圏と
は近いけれど異質な文化圏だね・・・、古墳時代から卓越した地域として行田が
あったのだけど、それ故に、周りの発展から逆に取り残されたのかナと私が言う
と、福島司法書士が、JRが行田の端っコをかすめる様にだけ線路を引いた関係
で、大半を受け持った秩父鉄道の力が今の行田を作ったのですヨ、というお話し。
なるほど納得の行田歴史探訪ツアーであった。(①島田鯉池、②水よし、③行田
歴史探訪の3巻モノ完結)
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